2014年09月05日
人の言も告げ来ぬ
野に生える生命力豊かな露草が、わが家の庭の片隅で青い可憐な花を咲かせていた。朝露を受けて咲き始めるその花も、朝露が消える頃には萎えてしまう。露草は古来より馴染みの深い花で、数多くある露草に関わる話題は意外と面白い。
明治の文豪である徳富蘆花ほど、露草の花そのものを賞賛した者はいないようである。『みみずのたはごと』の「藍色の花」で次のようにこう述べている。
「寿命も短くて、本当に露の間である。然も金粉を浮べた花蕊 (かずい:雄しべと雌しべ)の黄に映発して惜気もなく咲き出でた花の透き徹る様な鮮やかな純碧色は、何ものも比ぶべきものがないかと思ふまでに美しい。つゆ草を花と思ふは誤りである。花では無い、あれは色に出た露の精(自然物に潜むとされる霊)である。姿脆く命短く色美しい其面影は、人の地に見る刹那の天の消息でなければならぬ註冊公司。」
露草の特徴を端的に、しかも綺麗に描いた文学的表現である。他に比べるべきものがないと思うほどに美しく、あれは花ではなく、色に出た「露の精」であるとまで言っている。
「青空を地に甦らせるつゆ草よ、地に咲く天の花よ」
と讃えずにはいられないという彼の露草への思いは、もはや万物を支配する神を敬う心に近く、そこまで言い放った者はいないであろう。露草の花を眺めて可愛らしくは思うものの、そこまでは到底思えない私は神秘的に捉える彼の眼力にただ驚くばかりである。
『万葉集』に露草は9首登場し、その呼称は「つゆくさ」ではなく、万葉仮名で「月草」または「鴨頭草」と記録されている。なぜ「月」「鴨跖」なのか、納得できる説明には未だ出会っていないが、現在はツユクサに「露草」の字を当てるが、花が朝露の如く朝開いて夕べに散る実態に照らせば、これが一番相応しいように思える。
これらの歌で気づくことは、露草が「うつろう」「消える」などに掛かる枕詞として使われ、「思ふ」「心」などと一緒に詠まれていることである。一首だけ取りあげよう女傭。
「月草のうつろひやすく思へかも 我が思ふ人の言も告げ来ぬ」
大伴坂上大嬢が大伴家持に贈った相聞歌であるが、「私のことを月草のように移ろいやすいと思っているからでしょうか、私の思う人が何とも言って寄越さないのは」と詠んでいる。他の歌もそうであるが、この時代の露草は「うつろひやすいもの」の象徴であった。
枕草子では「つき草、うつろひやすなるこそ、うたてあれ。」と書き記し、「うたてあり」は「嫌だ、不愉快だ」の意味であるから、つき草は色移りし易いのが嫌であるとはっきり言っている。万葉のうつろい歌も情感において薄らいでしまいそうだが、そんな率直な物言いの清少納言が私は好きである。
Posted by yuyu at 11:50│Comments(0)
│生活感悟